センター長物語

センター長、奥野正孝先生による過去と未来と現在と

梅・桜・藤・?

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紀和診療所の裏を流れる板屋川を挟んで対岸に藤棚があります。
便所の窓からながめると、うすぼんやりと藤色か?
と思ったので行ってみると、
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ほんの少し咲いていました。
梅・桜に続いて藤と、紀和の春は大忙しです。
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医者屋の四方山話3・物忘れとぼけと痴呆と

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 あるおばあさんが診療所に来てこう言いました。「このごろ、物忘れがひどくなったきてしもうた。このままいくと、ボケてしまうのではないのかのう。痴呆になったら困るのう。」そういえば、老人の健康問題が何かと話題に上る近頃、診察の時によく耳にする患者さんの訴えです。確かに、病気としての痴呆の症状のあらわれのひとつに、物事を忘れ去ってしまうというのがありますが、いわゆる物忘れとは少々違います。それに気になることは、あたかも、物忘れの次ぎにボケがきて、その次にはだれもが痴呆になってしまうと思われがちなことですが、実際はこれらは一連のものではありません。また、痴呆という状態になる人の割合はそんなに多くないのが実状です。
 それでは物忘れについて考えてみましょう。
 子供の頃を思い出してみて下さい。目に入ったもの、耳に聞こえたもの、一度でも見たり聞いたりしたことをすべて鮮明に覚えていたということはありませんか。また、一度しか会っていないのに、相手の顔も名前もよく覚えていたということはありませんでしたか。このように若い時は、記憶力が良いのは確かです。そして、残念ながら、年齢を重ねると共に、記憶する力、特に最近起こったことについての記憶力は衰えてくるのも確かです。
 しかし、ちょっと考えてみて下さい。若い時に比べて、年を経るとともに、見聞きする事、会う人の数は、格段に多くなるはずです。それらをすべて記憶しておく必要があるのでしょうか。年齢を重ねると、記憶力は衰えますが、代わりに判断力や思考力は増してきます。頭の中では、覚えなくてよいものをどんどん判断して切り捨てているのです。その証拠に、重要なことや、大切な人の顔や名前は結構覚えていませんか。
 もう少し考えてみましょう。長い年月を重ねると、色々な楽しいこともあった一方で、とっても苦しかったことや、悲しかったことがたくさんあったはずです。もし、記憶が衰えずにいたら、苦しかったことや悲しかったことを微に入り細に入り、いつも覚えていて、いつも頭の中を駆けめぐっていたとしたらどうでしょう。とっても、辛いことではありませんか。この点、脳はとてもうまくできていて、都合の悪いことは忘れることもできれば、記憶の奥深くに仕舞っておくこともできるのです。記憶が衰えずにいることが、必ずしもよいことではないと思うのですが、いかがでしょうか。
 かといって、どんどん忘れるのも困りものだという方には、記憶を書き留めることと、記憶をいつも呼び出すことをお勧めします。脳に仕舞ってある記憶は、きっかけがあればいつでも呼び出せます。そのきっかけづくりのひとつとして、何かあったらすぐにメモしておくのがよいでしょう。判断力や思考力は衰えていませんから、メモがヒントになって記憶が出てくるとともに、それらが色々つながり、さらに記憶が連なって呼び出されてくるのです。また、いつでも、なにかにつけて記憶を呼び出していると、脳もトレーニングされて記憶が出てきやすくなるということもあります。楽しかったことをたまには思い出すとよいでしょう。
 年を重ねるとともに、記憶力より、判断力と思考力で勝負して下さい。物忘れを情けながったり、悲しまないで下さい。物忘れも、人が生きていく上での術のひとつなのです。
 神島では、夏の日の夕方になると、心地よい風を求めて島のあちこちで夕涼みをする老人の姿が数多く見られます。みなさん、毎日、同じ所で、同じメンバーが集まってきます。聞き耳を立ててみると、いつも同じ様な話をして盛り上がっています。自然に培われてきた島のとても良い習慣です。話をするということは、何でもないようなことですが、記憶をたどり、記憶を呼び出し、判断し、思考することなのです。
 さて、ここまで書いてきて、少し気になったことがあります。痴呆という言葉についてです。痴呆という言葉は、医学用語でもあり、新聞でもテレビでも、はたまた日常会話の中でも平気で使われていますが(現にここでも使ってしまいましたが)、私はどうしてもこの言葉を患者さんに対して使う気になれません。なぜなら、痴呆という言葉があまりにひどい言葉だからです。たとえば、痴という字を使った言葉にどんなものがあるでしょうか?一般的にすっと思い出されるのは、痴漢、音痴、白痴という言葉ではありませんか? 同様に呆という字を使った言葉で思い出されるのは阿呆という言葉ではありませんか? また、漢和辞典を調べてみますと、「痴の字義は、おろか。馬鹿。頭の働きがにぶい。思慮分別が足りない。」「呆の字義は、おろか。あほう。ぼんやり。」とあります。このように、まさに人を差別し、蔑視した字を二つも重ねてできている痴呆という言葉が、差別されるいわれもなく、蔑視される罪もない、お年寄りに対して使われていることに大いなる疑問が湧きます。
 たとえ辞書にあるように、痴呆という言葉が「知能が全く欠けてしまっていること」をあらわし、そのような状態になっている人がいるにしても、たまたま現在そういう状態になってしまっているだけであるのに、長い人生を歩み続けてきた大先輩に対して使ってよい言葉であるとは思えません。
 英語では、痴呆のことを dementia といい、その語源は「心(mens)を欠く(de-)」ということのようです。このほうが、まだ、冷徹であっても症状を直視して表現してあるように思えます。
 様々なハンディキャップを持った人達に対して使われてきた言葉が次々と姿を消し、新たな言葉に置き換えられていますが、痴呆という言葉が何の議論もなされずに使われていることが不思議でならない今日この頃です。(1996年6月記)
IMG_0002.JPG 医師宿舎2階より伊勢湾・知多半島を望む

千枚田・あぜぬり

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恒例千枚田の「畦塗り」に行ってきました。
総勢8名、全員写っていますがわかりますか?
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畦塗りとは、田んぼの泥をこねて畦を作るという大いなる泥んこ遊び、失礼、大いに疲れる泥んこ仕事です。
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千枚田保存会のおじいさんに教えてもらって、小さな田んぼを一つ一つやっつけていきます。
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泥だらけになるころには、すっかりベテランの得意顔です。
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どうです、うまいもんでしょう。
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どこがうまいのか、やった者しかわからない。
この自己満足がたまらない。
さあ、来月は最も沢山の人が集まるイベントの「田植え」です。

追記
終わってからみんなで、花の窟・獅子岩・熊野倶楽部(温泉入浴)とプチ観光に行って来たのですが、その時気付いたのがこれ。
獅子岩の隣のこの岩、海をながめる後ろ髪が豊かな「顔」に見えますよね。
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医者屋の四方山話2・とっても役に立つ病気

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 生まれてすぐの赤ちゃんは、丸裸でこの世に飛び出してくるので、病気にかかりやすいと思われがちですがそうではありません。実は、生まれてくるときに、おかあさんに備わっている病気に対する抵抗力をそのまま持ってきて、体がしっかりするまでこの抵抗力で体を守るのです。したがって、生まれてすぐの赤ちゃんはあまり病気にはかかりません。しかし、六か月頃までには徐々にこの抵抗力は失われ、この頃を境にして色々な病気にかかりやすくなります。病気にかかるということは決して悪いことではなく、病気にかかりながらそれぞれの病気に対して、自らの力で抵抗力をつけていくのです。人の体が実にうまくできていることの一例です。
 さて、突発性発疹という病気があります。この病気は、生後六か月頃から一歳ころの赤ちゃんがよくかかる病気で、実に役に立つ病気なのです。病気なのに"役に立つ"とはどういうことかと思われるかも知れませんが、理由をお話しします。
 突発性発疹( 3-days fever)について、医学書を紐解きますとこう書いてあります。「6か月〜2歳の乳幼児に限って罹る疾患で、潜伏期は5〜15日。症状としては、3〜5日の熱発の後、躯幹から四肢にかけての淡紅色の発疹が出現し、発疹は1〜2日で消退する。合併症は特になく、予後は絶対的に良好。治療は対症的に行えばよい。」少しわかりやすく説明しますと、この病気の症状は、3〜5日の間39度を越えるほどの高い熱が出ます。このため、おかあさんはびっくりしてしまいます。特に始めての赤ちゃんの場合には、おろおろするほどにびっくりしてしまいます。そして、熱が下がってほっとする間もなく、全身に赤い発疹が飛び出してきます。これでまたまたおかあさんはびっくりしてしまいますが、1〜2日経つと嘘のように消えていまい、跡が残ることはありません。そして、肝心なのは、一緒に起こってくる病気(合併症)もなく、ほとんど間違いなく、跡形もなく治ってしまうのです。つまり、症状はやや派手ですが、放っておいても勝手に治っていく病気なのです。
 この病気をおかあさんの教育に役立てようというわけです。高い熱が出ると、とんでもない病気にかかったのではないか、何か後遺症でも出るのではないかなどと不安になりながらも、一晩でも、二晩でも、(水分補給だけは欠かさないで)赤ちゃんを見守って、頑張ってもらうのです。そうするうちに必ず熱は引いていきます。熱が引いていくのは、病気の成りゆきとして当然なのですが、おかあさんにとっては、「私が頑張ったからだ。私が赤ちゃんを守ったのだ。」という、すばらしい自信がつくのです。しかし、さらに追い打ちをかけるように発疹が出てきて、自信が失われてしまいそうになりますが、これまた、嘘のように消えき、やっぱり「私が頑張ったからだ。私が赤ちゃんを守ったのだ。」と、更なる自信となっていくのです。
 最近のおかあさん達は、医療機関をよく利用します。このこと自体が悪いことではないのですが、どうも、医療機関に頼りすぎているのではないかと感じることがあります。すべてを医者と薬に任せてしまい、自分で子供を観察し、ひとまず自分で対応するということが少なくなっているように思います。子供は、よく病気をします。それらの中には恐い病気が潜んでいることも確かですが、適切なアドバイスを受ければ自分達で対処できる病気がほとんどです。病気をただなおしてもらうために医療機関を受診するのでなく、受診することから多くを学び、ひとまず、自分が子供を守るのだという、たくましいおかあさんになってもらいたいものです。
 守るといえば、最近予防接種のことがよく話題になっています。この冬猛威を振るったインフルエンザに対しての予防接種をもっと受けていればよかったのではといったことや、妊娠中に罹ると異状を持った赤ちゃんが産まれる可能性が高くなってしまう風疹の予防接種を受ける女子の中学生が激減していることなどです。これらは、予防接種は集団に対して行うものであるという考え方から、個人の判断で行うものであるというように、予防接種法という法律が変わったために起こっていることの例です。つまり、これまで予防接種といえば、学校や町という単位で、対象者全員に対して行っていたのですが、多くの予防接種がそれぞれ個人(子供の場合は保護者)の判断で行うようになったのと費用の負担が増えたために、集団で行っていたときより予防接種を受ける人の数が少なくなっているために起こっている現象です。このこと自体は困ったことですが、予防接種法には、自分達の体は、それぞれの判断のもとに、自分達で守るのが基本であるとの考え方が根本にあると考えます。
 また、病気の治療方法を選択する場合でも、患者さん(あるいは家族)の判断をもっとも重要視するようになってきています。たとえば、Aという病気に対して、BとCという治療法があったとすると、医者はBとCの治療法について、その長所短所などを含めた説明を十分行った上で、どちらの治療法を選ぶのかを患者さん(あるいは家族)に判断してもらいます。これまでのように、医者の意見で決めることはありません。
 このように、患者さん自身あるいはその家族が判断しなければならない場面が確実に多くなってきています。そのためには、医療者側は、情報の公開を含めて、判断材料を十二分に提供しなければいけないのはいうまでもありませんが、もっと大切なことは、患者さん自身あるいはその家族が、その判断能力を養わなければいけなくなってきているのです。これはとても大変なことで、急にできることでもありません。しかし、自分自身の体のことや、子供の体のことを人任せにするのではなく、自分達で観察して、自分達でひとまずの対処ができるようになっていくことが、自分達の体を知っていく第一歩であると同時に、医療者側も、これまでのようにただ治せばよいというのではなく、患者さんが病気と闘うために、色々な知恵を授けるための努力を惜んではいけないのです。時代は大きく変わってきています。(1995年5月記)
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散り際の花見

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昨夜は病院事務系の皆さんが中心になって、研修医や実習に来ている学生達のために花見を催してくれました。
場所は熊野市山﨑運動公園、一昨日の雨にもめげず木に花は残り地は花びらの絨毯。
他に花見をする集団はなくまさに独占状態でした。
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見上げれば散る間際の花が一杯。
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楽しく美味しい宴、ありがとうございました。
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小森のおばあちゃん

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いつも往診に行く小森のおばあちゃんは、玄関に向かって椅子に座って、一日中のんびりと外の景色をながめています。
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玄関から見える景色がこれ!
夜になっても満開の桜が白く浮かび「明るかった」とのことでした。
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食欲良好、悪いところなし。(じゃあ、なんで往診?)
来年も一緒に桜を見させて下さい。
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