2010年6月の記事

神島に行ってきました♪

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201006281233001.jpg 201006281230000.jpg 201006281307001.jpg月曜・火曜と神島に行ってきました。週間天気では雨か曇りだったので船が欠航しないかとか船酔いしないかとか心配でしたが大丈夫でした。快晴で昼には島一周できました。14キロなので1時間くらいであるけます。灯台がたまたま点検中で特別に中に入らせてもらいました。年1回しか公開していないみたいで。かなりラッキーでした。愛知県の渥美半島が鳥羽より近いのでよくみえました。漁師と海女(あま)の町っていうイメージでした。日にやけた人が多かったです。島の診療はゆったりとしていて、とても人間味あふれる良い雰囲気でした。先生もやさしい方で、針・灸をされているんですが、実際自分もやってもらいました。貴重な体験でした。神島は最近水疱瘡(みずぼうそう)がはやっているようでした。子供たちは数はすくないですがちゃんといます。ほら貝の刺身がとてもおいしいです。もしあったらぜひ食べてみてください。たった2日間でしたがバカンスできた感じでした。

それは戦争だった(4)体制を整える

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122日(震災後6日目)午前

 午前7時起床。朝のミーティング。活動本部を夙川小学校に置くこととし、人も資材も車両もすべて夙川小学校に集結し、そこで改めてミーティングを行い活動を開始することとした。夙川小学校への道は、所々崩れたりひびが入ったり、家が倒壊していて道を塞いだりで、なかなか地図通りには行かない。車を駐車した運動場には大きな亀裂が走っている。メンバーは早速診療を開始している。聞けば、地震以来近所で小児科を開業しておられる先生がずっと毎日診療していて、引継をしたとのことであった。感謝され、困ったことがあれば何でもどうぞという、ありがたい。

 本部として提供していただいた教室で早速ミーティングにはいる。まず、夙川小学校に避難されている人数は8001000人で、昼間は壊れた家の後かたづけなどに行ったりしていて昼と夜の人数は異なり正確に把握はされていないとのこと。そして、今後の活動として、1.現状把握として校内を隈無く回り、避難場所と人数のは把握、支援の状況、何が使えるかを調査する。2.学校周辺の状況把握と開業されている先生への挨拶周り、および午後から行う予定の北夙川小学校調査および目に付く避難所まわり。3.当直を行う予定なので、当直場所、夜間診療場所の設営。4.持ってきた医薬材料品のチェック。5.そして、最小限の医薬材料品を持っての神戸方面への調査隊の出発等を行うこととし、全員が活動を開始した。

 そんな中、今後の診療所のあり方について考える。まず必要なのは看板。ただし、自治医科大学の名称をいれることについては、何もしていないのに書くのもおこがましく、またボランティアであるとの立場として表示することは不適切と考え、やめる。診療体制は、需要状況がつかめていないので、まず十二分に医師を配置することとし、日中は医師二人が常時診療にあたり、診療時間は午前10時から午後7時までとし、校内の巡回は一日二回、夜間当直は不慣れな場所での初めての当直ということで3人体制を敷く。また、学校周辺の巡回も行うこととするなどを考える。

 そのうち、学校周囲回り担当のS教授が帰ってきた。周囲の開業の先生方はとても協力的で、レントゲン装置が使用可能で必要なら使っていいとの話もあり感謝。またもや、少しずつ協力してもらえる人が増え、診療の内容も充実できる可能性が出てきた。

 昼食は持参したインスタント食品ですます。学校には救援物資が十分届いている。避難されている方々の方がよい食事をしているようだが、どうしてもそれらをもらう気にはなれない。持参した薬剤の中に肝腎の風邪薬と抗生物質がほとんど含まれていないことが明らかになり、あせる。

 少し診療を行う。診療内容自体はいわゆる軽症が多く、へき地の診療所となんら変わりがないが、どことなくおかしい。何かと考えてみると、なんと、受診される人達に笑顔がないのである。どことなく無表情で、笑うことを忘れてしまっているかのように思える。いつも、私が診療でよく使う下手な冗談などとても言えるような状況ではない。しかし、こちらが余裕を失ってはいけない。むつかしいが、こちらができるだけ笑顔を作るようにしよう。

 午後に西宮市中央体育館でのミーティングに向かう。救援物資として薬剤が届いているとのこと。しかし、とても分類したり整理したりしている余裕はないので、自由に持っていってもよいとのこと。よし、薬剤補給先が一つ確保できた。ミーティングでは、これまで活動が医療中心であったが、老人の看護・ケアといった福祉の部分へ問題がシフトしてきており、さらに予防も重視しなければいけないということ、また、小さな避難所は十分に把握されておらず、こまめな巡回が必要なことも指摘された。さらに驚いたことに、西宮市民病院では、患者がほとんどこなくて医者が余っており、しかも、水道、ガスが使えないために手術はできず、重症患者も受け入れられないためベッドも余っているとのこと。明らかな疾患がなくても、ケアが必要な老人などがいたら、紹介状だけで直接入院させてもらえるとのことであった。バックベッドが確保できた。うれしい。ある医師が「病人を待っている限りでは、医師はいらない。」と言った。肝に銘じよう。診療所でただ待っていたのではためだ。どんどん外にでよう。

 午後10時、やっと宿舎にたどり着く。夜のミーティングスタート。東灘区の状況は西宮市よりさらに深刻で、大きな避難所は診療はできてはいるものの、毎日診療する組織が異なるなどの問題点があり、小さな避難所に至ってはその場所すらも把握されていないとのことであった。避難所の場所については、食料などの救援物資は届いているのだから、そちらからリストをもらえれば、容易に把握できるのに、それすらもできていないとのこと。やはり相当現場は混乱しているらしい。とにかく、明日も巡回を繰り返し、常設の診療所が必要なら設置も考慮して行動することとした。

 またまた、みんなが寝静まるのを待って、余った毛布をかき集めて眠りにはいる。

okuno.jpgto be continued(しかし私の日記はここで途絶えてしまう)

めっちー同窓会 in TOKIO

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東京出張のついでにめっちー同窓会をやってきました。
(同窓会のついでに出張してきました)
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田中、杉元、金子研修医、そして瀬口、中川指導医が集まりました。
うれしかったのは、みんなの目が(相変わらず)キラキラしていたことでした。
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そして、中川指導医の飲み方も相変わらずでした。
みんな!また会おう!
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もうすぐ研修終了 3本足のヤタカラス

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DSC_3768 4.jpg紀南病院に来てまもなく1か月が過ぎようとしています。いろんなところから研修医が来て、研修内容も給料も生い立ちも違うメンバーが短い間、同じ病院で研修するのは刺激的でした。病院によるシステムの違い、診療の違い、指導体制の違い、給料の違い等々さまざまなことを、いろいろぶっちゃけ話で話合い意見交換できたのはとても面白かったです。地域医療研修は良いことばかりではありません。地域医療の現状をまざまざと見せつけられる場面もいくつか経験しました。救急外来で各科にコンサルトできないときの医療訴訟のリスク、医師不足が原因で生じる一人一人の仕事量の多さ、そういったものはないといったらウソになると思います。地域医療だからこそ家族とのつながりが非常に大事で患者さん、患者さんの家族から都会以上に感謝されるのも事実です。そんな現実も一度自分の目でみて、感じないとわからないと思います。なので全国の地域医療に興味がある人もない人もここ紀南病院で実習なり、研修なり、就職なりしてみてはいかがでしょうか。百聞は一見にしかず。『ちいきは人をステキにする』これが紀南病院研修のモットーです。ぜひ一度紀南病院にきていろいろ感じてください。ドリアンもたべてみないとおいしさがわかりません。写真は熊野古道25km歩いてたどりついた熊野本宮大社の3本足の「ヤタガラス」の前で研修医4人で撮った写真です。「ヤタガラス」は幸福に導いてくれるカラスで今話題の日本代表のエンブレムの素材です。僕らも本宮大社に日本代表の勝利を願ってきたのでベスト16に今日なれました。当直中にサッカーみたので眠いです。

平成7年1月17日 ~第Ⅳ章~

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竜巻に吹き荒らされた様な部屋の中からテレビを拾い上げる。

映らない・・・。壊れたのか。

ラジオ。

聞けない・・・。壊れたのか。

何の情報も無い。

部屋を片付ける気力も無い。

疲れだけが押し寄せる。

壁にもたれかかり座ったまま眠る・・・。

 

電話の音で目が覚める。

両親からだ。

「無事か?ずっと電話をかけ続けていたが回線が込み合ってつながらなかった。

神戸で大きな地震があったと報道されている。阿田和も凄い揺れだった。」

地震であったとようやく確信が持てた一報であった。

これから友人達と集まりともに過ごす事を告げ電話を切る。

 

眠っていたせいか喉が渇く。

コップを探し蛇口をひねる。

水が・・・・出ない。

なんで・・・。さっきはシャワーも出たはず。

慌てて台所、洗面所、トイレ・・・次々と蛇口をひねるが水は出ない。

うつ伏せになった冷蔵庫を持ち上げて飲み物を探す。

卵、惣菜、調味料、全てが押しつぶされている。

ベトベトになった1本の缶ジュースを見つけてむさぼり飲む。

 

電気はどうだ。

希望むなしく電気もつかない。

何で・・・。

状況を理解できない。

 

そしてまた来た。

大きな揺れ。

やっぱり駄目なのか・・・。

絶望のどん底である・・・。

 

 

 

 

 

 

それは戦争だった(3)高まる不安

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1月21日(震災後5日目)午後
 午後、西宮保健所着。保健所長から状況を説明されるが、全般的な説明だけで医療については明確でない。結局、市の担当の人と話し合ってもらいたいとのこと。一方、車両部隊の到着は大幅に遅れそうで、万が一、深夜にでもなってしまえば、寝袋さえも手に入らないことになる。ますます、宿泊のことが気になり出す。突然、大阪にいる弟から電話が入る。人事部に掛け合って会社の会議室を宿泊場所として提供してくれるとのこと。よし、これで寝袋があれば、大阪まで戻ればよい。寝袋がなければ、大阪なり、京都なり、場合によっては名古屋まで戻って宿泊すればよい。少し安心して、保健所の外に出ると、何と笹井所長がいるではないか。改めて事情を説明すると、自治医大の客員教授であるT先生のお宅に併設して関西学院の音楽堂があり、そこに宿泊できそうで、少し遠いがこれから歩いていって交渉してくれるとのこと。もし、そうであれば、最適の場所を確保できることになる。
 待つこと2時間あまり、市保健環境部の北村部長が現れる。目は充血し焦燥感が漂うが、とてもエネルギッシュな感じがする。この人なら話ができると判断。早速、派遣団の説明と希望を伝える。部長からは、220箇所あまりの避難所の存在はわかっているが、その医療状況については市と保健所の保健婦が巡回を始めたばかりで全貌は明らかではない。そして、NGOの諸団体が、昨日医療団を結成して西宮市中央体育館に本部及び仮設診療所を設置し、市内の避難所の医療状況の把握および診療を始めており、夜8時から連絡会があるので、それに参加して活動場所を決めたらどうか、その決定については市は全面的に支持するとの示唆を受ける。そして、部長が、そっと「もし、宿舎がなくどうしようもなかったら、市の健康開発センターのどこかを確保しましょう。」と言ってくれる。部長は、地震以来一度も家に帰らず一日3時間程度の睡眠しかとれず、しかも家は神戸にあり被害を受けているとのこと。目の回るような忙しさと、家と家族への不安と、極度の緊張状態の続く中での配慮に頭が下がる思いがする。これで、音楽堂がだめなら市の健康開発センター、それでもだめなら大阪の弟の会社、そして、寝袋が着かなければ名古屋くらいまで戻ればよい。宿泊の目途が付いた。と思っていたら、笹井所長が戻ってきて、T先生の御配慮で音楽堂の使用がOKとのこと。最大の難関がクリアーできた。ひとまず、行ける人から音楽堂に向かうことにする。ここでも、張先生が懇意にしているタクシーが来てくれ、人数が多いので何度も往復してくれるとのことである。感謝感謝。そうこうしているうちに、車両部隊から近くに来ているとの電話が入り、午後8時30分、無事到着。
 夜、徒歩で西宮体育館に向かう。連絡会は司会とコーディネーターとの息がぴったりで、スムースに進行。西宮市の東南部は元々被害も少なく復興の度合いも大きいが、西部北部はそうでなく診療の開設が必要な所はまだまだ多くあるとのことだったので、我々の特徴とその後神戸方面への活動のことも考慮して、市西部の2箇所で診療所を開設したいとの希望を述べる。また、神戸市東部は西宮市以上にひどく、医療状況も混沌としていてほとんど手つかずで、ましてや西宮のような組織化についてはその動きも見られないとの報告がある。その後調整を行い、我々は西宮市の西部にある夙川小学校と北夙川小学校の2箇所の避難所に診療所を設置し、周囲の巡回も行うこととし、両避難所の責任者である校長には、部長がこれから学校に行って話してくれるとのことである。これで明日からの活動拠点を確保。
 タクシーの運転手さんに教えられた裏道を音楽堂に向け地図を頼りに行く。宿舎と活動拠点の確保という当面の問題が予想より早く解決したので、団長以下一同声も明るい。午後10時30分宿舎に着き、早速第一回のミーティング開始。多くのメンバーにとって、この日の活動は待つことが多かったためか今一つ盛り上がらない。しかし、T先生やそのご友人から、できる限り協力をしていただけることなどを聞き力強く感じる。そして、活動拠点が決まり、明日から診療が開始できることを全員に伝え、意気は上がってきた。部屋の真ん中では、被災地内を車で走るには絶対車に貼りつけるべきだというS先生の提案で、赤十字のマークと自治医科大学の名称を、持ってきたシーツに思い思いに書き始めた。
 深夜、北村部長より電話が入り両校長の承諾が得られたとのこと。深夜までの配慮にまたまた脱帽。午前1時、余った毛布にくるまり就寝。
 このようにして、コーディネーターとして、宿泊場所と活動場所の確保という最初の大きな仕事は、多くの人たちの協力と運と偶然が重なり、第一日目にして終わった。そしてチームワークの構築については全くの杞憂に終わった。次の日から、全員が自ら進んで仕事を見つけそれを実行し、時事刻々変わる情勢と急激な展開に対応し、深い悲しみに包まれた避難民の方々を診療しながら、日に日に結束は強くなっていったのであった。
okuno.jpgto be continued
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