2010年7月の記事

それは戦争だった(7)スイッチ・オフ

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 1985年に起こった日航機墜落事故の犠牲者の身元確認を行った人々の記録を記した「墜落遺体」の冒頭にこう綴られている。「私は、愛する肉親を失った数千人の遺族の究極の悲しみの場に立ち会った。どれもが、私の記憶の奥底に永遠に封じ込めておきたい凄惨な情景である。できることならあの夏の出来事だけは私の記憶からすべて消し去りたいと思う。でも夏が近づくとあの情景が、もぞもぞと這い出してくる。...(中略)...遺族の極限の悲しみが集約された体育館の中で、各々の職業意識を越えて、同じ思いで同化していった一つの集団の記録を決して風化させてはならないと考えて本書を執筆した。」興味半分に読み進んでいくうちに、このような極限状態におかれて作業をする人達が奇妙な行動をとるようになる場面が記されていた。すると、あの時の事がふと思い出された。
 1995年1月27日、自治医大阪神淡路大震災医療派遣団の第一陣として参加した私は、コーディネーターの役割を後輩に引き継ごうと西宮北口駅前の公衆電話の受話器を握っていた。しかし、引き継ぐべきことは何も言えず思わずこう叫んだ。「スイッチを切らせてくれ。」と。そして私は、第一陣のみんなと一年分にも匹敵する仕事をこなしていった思考回路と、幾重にも重なった悲しみに押し潰されそうになりながらも必死で頑張っている人達の顔の残る記憶回路のスイッチを切った。その瞬間、頭の中が全くの空っぽになり、一刻でも早くその場から逃げ出したくなった。切符を買おうとするのだが自販機がまともに扱えない。
 なんとか手に入れた切符で着いた梅田の駅周辺は、神戸に向かう人達が手に手に荷物を持ってひしめき合っていた一週間前と異なり、華やかな金曜日の夕方であった。伸びた髭と薄汚れたダウンコート、それに一週間風呂に入れなかった体から発する体臭のためか、人の目がやけに気になり始め、急に着ている服がいやになってデパートに飛び込んだ。ある店の前で黄色いセーターが目に付いて、店員にサイズを尋ねると「9号です」と答えた。「9号ですか?ぼくはMですけど」と言うと、店員が怪訝な顔をした。セーターを持ち上げると下にスカートが付いていた。あわてて店を飛び出して、何度も迷いながらデパートの紳士服売場にたどり着いたが選べない。なぜかしら一番好きな色である紺色のセーターを手にしていたが、細かいお金の計算ができないので一万円札を出した。その後、シャツを買う時も、下着を買う時も、靴下を買う時も、一万円札を出していた。いつの間にか、ズボンのポケットが釣り銭でいっぱいに膨らんでしまっていた。ホテルに着いて買った服に着替え、それまで着ていた下着もシャツもセーターもごみ箱に投げ捨てベッドに横になると、窓一杯に夕日が広がり、神戸の方角の空をオレンジ色に染めていた。
 第一陣で共に過ごした仲間達と食事をすべくロビーで待っていると、とんとんと背中を叩く人がいた。振り返ると身だしなみの整った二人の女性が微笑んでいた。よく見ると、一週間行動を共にした看護婦さんではないか。服もコートも靴もバックも買ったと言う。示し合わせたわけではないのに、残りの連中も全員が新しい服を着て靴も買っていた。食事中誰かが「今年は平成何年だ」と言った。六年と七年に意見が分かれ、何度話をしても埒があかないので店員に答えを聞く羽目になったりして、いくら飲んでも酔わない夜が更けていった。
 翌朝、みんなで一緒に帰ろうと言っていたにも関わらず、突然一人で帰りたくなり、朝食もとらずにホテルを飛び出した。昨日よりはましになっていると思った瞬間、信号無視。切符を買う時にも、千円札をたくさん出すわ、十円玉と五円玉の区別はつかないはで四苦八苦は続く。駅売りのおばちゃんの「ぬくい鰻弁当がええよ」との言葉の「ぬくい」の一点が頭にこびりつき、朝食にも関わらず鰻弁当を買う。車中、なぜか富士山が見たくなり、憑かれたようにずっと反対側の窓を見続ける。何度も通る売り子さんが、変な顔をして私を見ていた。東京駅に着き、またしても暖かいものが食べたくなったが店を探すことができない。うろうろしていると、いつの間にか数週間前に家族で行ったうどん屋の前に立っていた。メニューは、長男がおいしそうに食べていたてんぷらうどん。暖かいうどんと汁が体にはいると、なぜかしら涙が出てきた。ハンカチを持ち鼻をすすり、ずっと下を向きながら食べ続けた。電車を乗り継いでやっとの思いで自治医大駅に着き、とぼとぼと家まで歩いた。家族に会うとまたまた泣いてしまいそうで、深呼吸を何度も繰り返してから玄関のドアを開けた。そこには、一週間前と何も変わっていない、いつもの家と家族があった。
 私の生き方を変えてしまった体験の後の、奇妙な奇妙な出来事である。
okuno.jpgto be continued

ガラ

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例によって6時19分阿田和発普通列車に乗ったら、いつもと違う...?
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ガラガラ、なんと乗っているのは運転手さんと私だけ。
まさにワンマン列車。
そうか!
夏、夏休み。
通学の高校生達が乗っていなかったのでした。
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それは戦争だった(6)大渋滞

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 「風呂にはいれるぞ。」午後9時過ぎに避難所での診療活動を終え、疲れ果ててねぐらに帰った我々を待ち受けていたのは、まさに天の声であった。何しろ、一週間近く風呂に入っていない。
 兵庫県の卒業生が、自宅が被災しているにも関わらず、遥か遠くの栃木県から来てくれた母校の人達に何かできないかと車で駆けつけ、風呂に入れる場所を知っているので案内してくれるとのことであった。頭の中は即座に「風呂、風呂、風呂。」風呂のことで満杯になり、食事もせず、ミーティングも忘れて、ほぼ全員が車に飛び乗った。みんな余程うれしいのか、疲れているにも関わらず会話は弾みに弾んだ。しかし、目的地近くになると、にわかに車のスピードは落ちついに止まってしまった。そう、車の列はすべてその風呂のある場所に向かっており大渋滞を来しているのであった。こういう場合には、待っていられない性格を持つ私は、車を降り、徒歩でその場所へ向かった。駐車場はすでに満杯で、係りの人が「もう今日は入れません。」と叫び続けていた。いつもなら、気の弱い私はここで引き下がるのだが、なにしろ1週間風呂に入っていない十数人の期待が肩に重い。「栃木から来た、医療団で、一週間・・・。」と繰り返すと、係りの人は道路の向こう側を指さし、そっと耳元に「向こう側の駐車場を開けるよ。」と囁いた。車を止め、風呂道具一式を持ち、ぞろぞろと足早に向かった我々を待ち受けていたのは、またしても入場を待つ人の大渋滞であった。 こういう場合には、待っていられない性格を持つ私は、早々とあきらめた。みんなも、徐々にあきらめた。
 案内してくれた卒業生はしきりに謝るのだが、みんな明るく微笑んでいた。風呂には入れなかったけれど、卒業生の気持ちが、とても、とてもうれしかったのである。「よかったよ、またみやげ話が一つ増えて。」行きにも増して、帰りの車中はにぎやかになったのは言うまでもない。
(追記 大渋滞にも関わらず、残って、粘って、風呂に入ったものが二人いた。うーん。)
okuno.jpgto be continued

それは戦争だった(5)つらかった診療

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 当時のカルテを読み返してみると、避難所での診療は、病名だけを見れば、風邪を中心とした急性疾患、薬剤の切れかけた慢性疾患、後片付けから生じる小さなけが等が多く、老人の肺炎を除けば、入院に至るような重症疾患に遭遇することは多くなかった。しかし、診療所を訪れる人達があまりに大きな悲しみに包まれていることが、ひしひしと伝わってくるようになり、徐々に診療にあたる者たちにも衝撃を与えるようになってきた。我々は医療者として、肉親の死、住居の喪失、失職など、ひとつひとつの悲しみを抱える人達には、多数会ってきたし、その時の対応も自然にトレーニングされてきていた。しかし、今回のように、それらの悲しみが一挙に、一人一人に襲いかかり、さらに、住んでいた町までも失ってしまうという、想像できない悲しみに包まれている人達と接する経験はなかった。適切な診療を行うには、患者さんと一定の距離を置いて診療に当たらないといけないとは思っていても、どうしても、患者さんの気持ちに入り込み、感情移入していくのを止めることはできなかった。そして、それが、スタッフ全員の精神的な疲労を蓄積していく結果となった。


 一人のおばあさんが、とぼとぼと診察室である小学校の保健室に入ってきた。訴えは、「おしっこの出なくなる薬がほしい。」という事であった。理由を聞くと「夜になると何回もおしっこに行きたくなるのだけれど、寝ている教室から便所に行くには、まず暗い教室から他の人達を起こさないように出なければいけない。そして、音のするドアを注意して開け、廊下に出るころには尿意をもようしてからかなり時間が経っており、もらしてしまうこともある。たとえ、廊下のはしにある便所にたどり着いたとしても、夜でも女子便所は長蛇の列であることが多く、待っている間にもらしてしまう。もらしたまま教室に帰れば、回りの人達におしっこのにおいを嗅がすことになりとってもつらい。仕方がないので、校庭に出て、焚き火をしているところに行って濡れたところを乾かす。こういうことを、一晩に何回も繰り返す。水も飲まないでいるのだけれど、薬でおしっこが出なくなればこんなつらいことはなくなる。」ということであった。

 私は何もできなかった。医療人として無力さを思い知らされた。できたのは、たまたま持参してきた大人用のおむつを、たくさんあげることだけだった。「おばあちゃん、腰の回りが膨らんでちょっと格好悪いけど、おむつして思いきりおしっこしてよ。においも漏れないから。水もたくさん飲んでな。」 おばあちゃんは、ずっと下を向いたまま話をしていた。おばあちゃんが目を合わそうとせずに話をしていた事に気付いたのは、大きな包みをぶら下げて、おばあちゃんが教室に戻っていったあとだった。

okuno.jpgto be continued

地域医療研修@紀南病院

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DSC00248.JPG 先月まで、紀南病院で研修をさせていただいた鈴木です。

研修終了後、ばたばたと紀南を去りましたが、あらためて研修中にお世話になりましたみなさんに感謝したいと思います。ありがとうございました。

さて、以前より、東大病院の研修センターから、東大での研修を希望する学生向けに行う臨床研修説明会で、紀南病院を紹介してくれと言われており、土曜日にそれが無事に終わました。私の中で紀南病院での研修を終えたという実感がわくとともに、紀南病院での3カ月を振り返るよい機会をいただきました。100人以上を超える学生さんたちの前で、紀南病院での研修を紹介させていただいたのですが、きっときっとこの中から、紀南に行きたいと希望する研修医が出てくると信じています。ちなみに、この説明会、去年は佐藤先生がされたそうで。。佐藤先生に負けない熱い気持ちで、紀南病院について語ってきました。気づいたら、20分あっという間に過ぎていました。

紀南病院の名物佐藤先生は、東大病院での研修紹介パンフレットにも掲載されていました。無断で載せてみました。

DSC00247.JPG すてきなドキュメンタリー調になっています。

文が見えなくて残念。

ここは何処?

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講演を頼まれて旅に出ました。
セントレアに行くと、出会った飛行機はサッカー王国ブラジルの誇るボンバルディア!
IMG_1426.JPG(時々車輪が出なくなるけれど)
プロペラ機なので、低い高度を飛びます。
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まずは、神島を眼下に見て、
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志摩半島をかすめて、
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串本を通って、
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たぶん?室戸岬を遠くに望み、
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着いた町のど真ん中に標高130mの城山(勝山)があり、てっぺんには立派な天守閣がありました。
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雨は降っていませんでしたが、降ったら雨音はきっと「ボッチャン、ボッチャン」だと思うのですが、さてここは何処でしょう?
地域医療の現場で頑張っている皆さんがたくさんいて、とてもうれしく楽しかった旅でした。
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